来福招き猫?

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一通のメール(東日本大震災) その後・・・・・

こんにちは!
皆さんお元気でいらっしゃいますか??
先日、ブログに記載した"一通のメール"に対して様々なメールを頂きました。
ありがとうございますm( )m

私はこの事実を押し付けではなく読んで下さった方がその方なりに理解して頂ければと考えます。
考え方は本人次第ですね^^

東日本大震災は次のステップに移っているようです
復興に向け前を向いて進んでおります。
いや・・・・
進むしかないようです。

ただ・・・・
福島に関しては残念ながら終わっていないようで"原発"の問題が現在進行形で進んでおります。
そんな中、酷い風評被害を聞きました。

福島から転校した児童が差別を受けているようです
それは児童からだけではなく先生からも・・・・・・・
嘘のような現実です。

それ以外でも"魚介類""野菜"等はもちろん東京でガソリンの給油を拒否されたり東京へ運送する
トラックは福島ナンバーでは運べない現実があるようです。
残念ながら悲しい現実のようです。


話は変わりますが"一通のメール"の知人から「あとがき」が届きました!
また知人も今回の出来事で考える事があったようです。

もし興味をお持ちの方はご覧下さい。
もし以前のブログを見ていない方は先に下記を見た方が理解出来ると思います。

一通のメール(東日本大震災) №01

一通のメール(東日本大震災) №02


~あとがき~

この記録は、生まれて初めての経験で私が間近に遭遇した東日本大震災の惨状を通して、
地震、津波の恐ろしさ、被災した人々の深い悲しみ、
また、震災直後、自分の身もどうなるかわからないような恐怖や不安、悲しみでいっぱいなはずの人達が、他人を気遣って手を差し延べるという強く、優しい姿を忘れてはならないと思い、書き記したものです。

この記録を書き終えた私は、まず少年のご両親のもとに記録を届けました。
後日、みんなで読みました、ありがとうございましたと連絡がありました。
そして、彼が通っている高校にも届けました。
震災翌日に彼は火葬されたとのことでしたが、それぞれに厳しい状況の中でも、たくさんのお友達が参列し、手を合わせられたと聞きます。
優しくて人気者だったと聞きます。
私は、お友達のみなさんにも彼の勇敢な最期を知ってほしいと思い、高校に足を運んだのです。

しかし、記録を作成していく間も、震災があった直後からの出来事をできるだけ正確なものにしようと、記憶を呼び覚ましていく中で、
深く考えさせられたことがありました。

もし、私たちが
彼に会っていなかったとしたら…
きっと彼は、まっすぐ、おばあさんの家に行き、彼も、おばあさんも助かっていたのかも知れない…。
私たちのせいで彼は…。

振り返ると、私の最初の判断に失敗があったのです。
利用者さんを避難させる際、その時乗ってきていた車に乗せて逃げていれば、彼には会わずに済んだのではないかと。
利用者さんが、座る姿勢がとれないイコール、車に乗ることができないと思いこんでしまったのです。入浴車という特殊な構造のワンボックスタイプの車でしたが、積んである浴槽などの荷物をその場に下ろせば、
寝たままの利用者さんをなんとか入れることができたと思われます。
そして介護者のばぁちゃんも車に乗せて、すぐ高台に逃げていれば人も車も無事だったなと…。
その時、冷静な対応ができなかったことが悔やまれます。
ちなみに第1波到着時刻は
3時26分頃でした…。
また、彼に、おばあさんがいることを知った時点で無理矢理にでも、おばあさんのもとに向かわせていたとしたら…?

思い出せば、思い出すほど、あの時こうしていれば…
もし、こうしていれば…と思い悩みました。
毎晩、眠れない日々を過ごしました。

いまも、2人のスタッフは、とても強い罪悪感を感じて暮らしています…。
そんな2人は、このように、たくさんの人達に、記録を公表することにも意欲的ではありませんでした。

私は、それでも
公表しようと思いたったのです。
私たちが、あの大災害から生きて帰ってこれた裏側には、こんなことがあったんだと。
一人の優しく、勇敢な少年に助けられて、私たちは生きていると。
いつまでも泣いてばかりの私たちを見たら、彼はどう思うのでしょうか?
彼の身と引きかえに救われた命なのです。生きていかなければならないのです。
私たちができることは、もう戻ることはできない彼のために、彼の死を無駄にしないことだと思ったのです。
この記録を伏せているほうが残された家族にとっては良いのではないかという意見もありました。私が、もし彼の立場だったら、ということを考えてみました。あの時、きっと同じように手を差し延べて、同じ結末を迎えたと思います。一人の男として、彼の気持ちがわかるような気がします。
そうせざるを得ない状況だったというか、その瞬間、瞬間で決断を迫られたはずで、もし逆の行動をとっていたとしら、
例えば、あの時、彼がわたし達に手を貸さない判断をしたとして、彼は助かって、もし私たち3人と利用者さんが津波に飲まれて亡くなっていたとしたら…。
正義感が強く、心優しい彼は、なんで自分はあの時…と激しく自分を責めたて、
一生後悔し続けることになったと思います。
優しさによって救われた命と
優しさによって失われた命が
ここにあると思います。
そんな彼は、「せっかく助けてあげたのに、何をクヨクヨしてるんだ!」って怒っていると思うのです。
まず、私たちが元気に暮らして、活躍していく姿を見せること。
そして、
記録を広く公表することで、またいつか起こるかもしれない大震災への備えになればよいと思うし、
震災直後、異常事態の中で見た、人々の強い倫理感、団結力、思いやり、優しさの大切さを後世に伝えられればいいなと思うのです。
彼が命と引き替えに残してくれたものを決して無駄にしないように。
理解してもらえる人もいれば理解できない人もいると思います。私個人の見解なので…。

今日でも被災地では、新たに発見されたご遺体が日を追うごとに増えています。
2万人をはるかに超える人々が亡くなり、その数だけ最期の日、命を落とす瞬間があり、そこには想像を絶する光景がいくつもあったと思います。
家族を目の前で流され、一人ぼっちになってしまった人、
今も遺体を探し続けている人々がたくさんいます。
計りしれない悲しみがそこにはあると思います。
わたし達には想像できないほど辛い現実と戦っていることでしょう。

わたしにできることは…
生き残った人達を微力ながらも支えたい、力になりたいとの思いで、この記録を世に出しました。

福島県いわき市豊間の一人の少年の生き様、男らしさに、私は男として尊敬します。

ありがとう!


~完~
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by raifukuneko | 2011-04-22 06:52 | ひとりごと

一通のメール(東日本大震災) №02

内容は多すぎて入りきりませんでした^^;
続きです!
お時間がある方はどうぞ^^


~少年の行方を求めて~

3月12日(土)
朝、目を覚ますと、
散らかった室内を見て夢ではなかったと実感させられました。体中が筋肉痛です。婚約者は朝早くから、担当利用者の安否確認に出かけていました。

そう、あの少年は…
ばぁちゃんが心配だと言い残し
姿を消したあの少年は…
私は、もう一度会って、お礼を言いたいと思い、少年の行方をさがすことにしたのです。

わかっている情報を整理すると…
その少年の家は、
豊間セブンイレブンの裏の道から、海に向かって突き当たりの海岸沿いにある。

年齢は10代後半?身長165~170㎝位。

この時点では、これだけでした。
2人のスタッフから話を聞くと、
帽子をかぶっていたこと、リュックのようなバックを背負っていたことの2つ、情報が増えました。
名前はわからないとのことでした。


3月13日(日)
何か手がかりをと思い豊間を訪れました。
自衛隊による捜索活動のため道路が封鎖されていました。
徒歩で旅館まで行こうとしましたが、瓦礫などが散乱しており通行できず、途中で引き返すことになり、
この日は情報を得ることができませんでした。


3月18日(金)
福島県警ホームページ上にて「震災による死亡者名簿」が公表されました。
豊間地区でも、多数の犠牲者が出たことを知り、胸が痛みました。
高齢者が多く見受けられるなか、たった一人、10代の若者がいました。年齢は17才。この若さで逃げ遅れるなんて…
この時私は漠然とした何か、胸騒ぎのようなもの感じていました。


3月21日(月)
昨夜から夜を徹してガソリンスタンドに列び、ようやくガソリンが手に入り、再び 豊間を訪れました。
封鎖されていた道路は開通しており、手がかりを求め、旅館へと向かいました。
しかし 人影はなく、連絡が欲しいとの手紙を玄関先に置き、立ち去ることにしました。
海岸沿いの道もなんとか通行が可能となっていました。
防潮堤が破壊されていて、分厚いコンクリートの塊が数十メートルも先に、流されていました。
こんな大きなコンクリートの塊が…?
今回の津波の破壊力に、あらためて恐怖を感じました。
利用者さん宅は、跡形もなく流され、基礎だけが残っていました。
あの時、あと少し判断が遅かったら…と思うとゾッとしました。
同じ並びの家も同じように変わり果てた姿になっていました。
この日も有力な情報を得ることはできませんでした。


3月23日(水)
私が勤める会社が、震災後、はじめての営業再開となり、慌ただしく過ごしていました。
ヒマさえあれば携帯をチェックし、情報を待ち続けました。

夜は、ある人を探してるいるとの記事を
FMいわきに投稿をしました。
また、豊間出身の知人に情報提供を呼びかけました。
インターネットの掲示板などで呼びかける方法を検討しました。


3月24日(木)
スタッフの1人からメールがきました。県警ホームページ上の「震災による死亡者名簿」にある、17才の少年…
私たちが探しているあの少年に、ほぼまちがいないと言うのです!
県警のものより、細かい住所が載っているサイトを見つけ、地図で検索をしたところ、家の場所がほぼ一致し、間違いないと思うとのことでした…。
とても信じがたく、信じられない思いでいっぱいでした。あの少年が死んでしまっていたなんて…。
でも、この情報だけでは断定することはできません。まだ、人違いの可能性も!
私たちは、少年の遺族を探すことにしました。
事情を話し、写真を見せてもらおうと。
答えは2つに1つです。
もし人違いであれば、あの少年は生存している可能性が残ることになります。
もし私たちが探している少年と写真の少年とが同一人物だったとしたら…
私は思いました。
この17才の少年のご両親は、
息子はどうして、逃げ遅れることになったのか、あの時どこで何をしていたのかを知りたいはずだと…。
そのことを知っているのは私たちだけということになります。
志し半ばで死んでいった、少年のためにも、ご家族のためにも、なんとしてでも伝えなければと!

やはり、それでも人違いであってほしいのですが…。

早速、そのスタッフが福島県警に電話をしました。
事情を話しましたが、最終的には、個人情報なので教えることはできないとのことでした。


3月25日(金)
この日、事態は急展開を迎えることになるのです!

私は、いつもどうり仕事をしていると、昨日、話をしたスタッフからメールがきました。
とある特殊な職業の友人がいて、連絡をしてみたところ、
その17才の少年のご遺体は、11日の日に父親が引き取りに来たと。
父親の連絡先は…?
それは個人情報なので、教えられないと言われたとのことでした。
どうすれば…どうすれば辿り着けるのかと頭を悩ませていたところ、電話がきて、
なんと!その友人が、事情が事情だからと特別に配慮をしてくれ、その父親に電話をしてくれたそうです!
私たちの話を、ぜひ聞きたいとのことになり、ついに、遺族と連絡がとれることになりました!

早速、電話を入れ、震災があった日から、ある少年を探しているのですが、もしかしたらそれが息子さんなのかもしれないのですと伝え、話をしていくと、住んでいた場所、
その時の服装、
近所に祖母が住んでいること、全てが当てはまりました。
写真があるので、ぜひ見に来てくださいとのことで、明日、私たち3人でご両親が避難しているという場所に行くことになりました。


3月26日(土)
私たちは、近くのコンビニに集合しました。私たち3人、あの大震災から二週間ぶりの再会でした。
2人の顔を見ると、あの日、無事に帰ることができて本当に良かったなと、しみじみ思いました。
2人とも昨夜は、よく眠れなかったそうです。

どうか 人違いであってほしい…。祈る思いで車を走らせました。

待ち合わせの場所で、待つこと数分、
近くの家に案内されました。

壁には、息子さんの遺影が立てかけてありました。満面の笑みを浮かべ、ブイサインをした、少年が…。
この写真だけではと、数枚のスナップ写真や携帯電話の画像を見せてもらい、私たちは確信をしました。
私たちが探し続けていた少年は、この人だと…。

あの日、私たちが出会った少年は、間違いなく息子さんだと思います…。
あの地震の直後、私たちは彼に命を助けられたんです。お礼を言いたくて、ずっと探していたのですが…。

言葉がつまります。

そうだったんですか…。息子は何をしていたんでしょうか?

あの日、私たち3人は近くの家で訪問入浴サービスをしていたんです。
その時に地震がきて私たちは利用者さんを抱えて大急ぎで避難していたんです。右も左もわからずにいたところに、ちょうど彼が家から出てきて、手を貸してくれたんです。
私たちを傍観しているだけの大人たちをよそに、彼は真っ先に「手伝います!」と言ってくれました。とてもありがたかったです。
そして地理がよくわからない私たちを高台へと先導してくれたのも彼でした。
もし彼がいなかったら、私たちは、やみくもに走り、体力を消耗し、動けなくなってしまい、利用者さん共々津波に飲み込まれていたかもしれないのです。
また彼は、ケガはないか、大丈夫かと利用者さんの体を気づかってくれました。
高台にあるホテル塩屋崎なら、ベットもあるし暖房もあるかからと案内してくれたんです。
その途中で、彼には
足の不自由な、おばぁちゃんがいることを知りました。
おばぁちゃんのところに行かなくていいのか?こっちは大丈夫だから行ったほうがいい!と何度言っても、彼は「ばぁちゃんは大丈夫です。足が悪いけど、一人で歩けるから、いまはこっちのほうが優先なんです!」と、行こうとしなかったんです。疲労困憊の私たちを見捨てられなかったのでしょう…
そして、ホテルに辿り着くと、
このホテルも安全ではないと言われ、彼はホテルの従業員さんに、一緒に運んでください!と声をかけてくれたのです。これも、2人の女性スタッフが疲れきっていることに気を使ってくれたんだろうなと思うと、なんて心優しい少年なんだと…
そして向かい側に小高い場所があるからと先頭を切って運んでくれたおかげで、私たちスタッフと利用者さんは津波から逃れることができたのです。
彼の勇気ある行動と優しさのおかげで…。

そして彼は、
ばぁちゃんが心配だからと言い残して、
私たちの前から立ち去ったのです…。

これが私たちの知る、息子さんの最後です。 もう、彼に会えないのが残念でなりません…。

するとお父さんが言いました。
息子は地震がきて一人、オロオロしていて津波に流されたと思っていたと。
そしてお母さんが、
息子は、立派に人助けをしていたんだね…。
大好きだった、ばぁちゃんが心配で戻っていったんだね…。
それで津波に…
がんばったね…
褒めてあげたい…と。

息子さんは地震の翌日に見つかったそうです。顔と後頭部に深い傷を負って…。
息子さんらしき少年が遺体で見つかったと連絡を受けたお父さんは、その目で確かめるまで、息子のはずがない、人違いだと信じて疑わなかったそうです…。

彼が気にかけていた、おばぁちゃんは…
いまだ行方不明とのことでした…。おじいちゃんは遺体で見つかったと…。
彼の携帯電話には、午後3時20分に、おばぁちゃんの家に電話をしていた履歴が残っていたそうです…。

お父さんが言いました。息子は地震がきた時、一人で心細かっただろう。恐かっただろうなぁ。甘ったれの息子だったから…。
あいつなりに精一杯、頑張ったんだろうな…。
息子が最後に、こんなにも男らしく、立派な行動をしていたことは親としてとても嬉しく思います。話をしてくれてありがとうございました。どうか盛人のこと、忘れないでください。
私たち家族も、これでやっと再スタートを切ることができます。ありがとうございました。と涙をこらえながら、話されました。


そして、その場を後にした私たちは、花束を買って、彼の家があった場所を訪れました。
花を供え、手を合わせて、私は彼に語りかけました。
今日、私たちは、お父さん、お母さんを少しでも悲しみから救うことができたのかな…
ありがとね、私たちをまもってくれて。疲れたでしょ?ゆっくり休んでね。
でもさ、あの時の登場シーン!
かっこ良かったなぁ…。手を貸すと言ってくれた時!皆を引っ張って歩いていく姿!超カッコ良かったよ!
お父さんに見せてあげたかったなぁ…

もう会えないなんて…
生きていてほしかった…。


何百年に1度とも言われた、歴史に残る大震災…。
あの日、あの瞬間にあなたに出会えた奇跡を、
キラキラと輝いていたあなたを、あなたの勇姿を、決して忘れることなく、私たち3人は生きていきます。


どうか、安らかに眠れますように…。

第2部
~完~

KS
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by raifukuneko | 2011-04-08 16:52

一通のメール(東日本大震災) №01

皆様、ご無沙汰しております。
そして・・・・・
震災に遭われた皆様、謹んでお見舞い申し上げます。

実は私も福島県いわき市に住んでおります。
私の事を心配して頂いた方々、ありがとうございます。
私も猫大将も元気で暮しております^^

地震はまた昨日も・・・・・
これから復興という時期にまたもや大きな地震です
そしてこの地域は原発からは40キロ、微妙な距離です^^;

今まで更新はもうしないと思っていたのですが知人から一通のメールが届き
そのメールで震災の事が少しでも皆様に理解して頂ければと思い更新してみました。

以後、彼のメールです。
お時間がある方は読んでみて下さい。


東日本大震災の記録

~はじめに~
2011年3月11日(金)午後2時46分。
東日本大震災。
想像を超えた未曾有の大地震と言われ、地震、津波による、死亡者、行方不明者は2万人を超え、今だかつてない甚大な被害をもたらしたのです。
世界でも4番目にあたる、マグニチュード9,0を記録した大惨事となりました。

私が暮らす、福島県いわき市は原発の影響から 市の北側の一部地域が屋内待避エリアとなっています。
その報道がもとで風評被害がおこり、物資を運送するドライバーが市内への立ち入りを敬遠し、ガソリン、灯油をはじめ、薬剤、食料、日用品など全ての物流が完全に遮断してしまったのです。
スーパー、コンビニ、ガソリンスタンドなどは営業できず次々とシャッターを閉めることになりました。
いわき市民は、地震、津波による実質的な被害と風評被害、復旧の見通しがつかない水道、ガス等のライフラインといった状況から、
市民の多くは県外へと避難し、まるでゴーストタウンのような街になっていました。

私は、いわき市に住む37歳(♂)で訪問入浴の会社に勤務する介護福祉士です。
ひとつ歳下で居宅介護支援事業所に勤務するケアマネジャーの婚約者と、ミニチュアダックスフンドの、うり坊くん♂の3人で暮らしています。
その日は、
朝から2人とも仕事に出かけ、うり坊は留守番という、普段と変わりのないものでした。


第1部
~被災~
平成23年3月11日(金)
午後2時
私は、いわき市豊間という海岸沿いの小さな町で訪問入浴サービスを行っていました。
訪問入浴サービスとは、看護士1名と介護員2名の計3名で利用者宅に訪問し、在宅での入浴が困難な高齢者、障害のある方に行われる介護保険のサービスのひとつです。
この日は、とても信頼する大好きなスタッフとのチームで私は楽しく仕事をしていました。

その時、訪問していた利用者さんは、在宅酸素療法を用い、寝たきりの状態で暮らす介護度の高い男性でした。下半身に拘縮があり、座る姿勢をとることも難しく、移動をする場合はストレッチャー対応の車輌が必要でした。

いつものように若い頃の昔話などの会話を楽しみ、くだらない冗談に失笑を…といった、いつもと変わりのないサービスを終え、さて退出の挨拶をしようとした その時でした。

午後2時46分。
いままでに体験したことのない強い揺れが、あのマグニチュード9,0の大地震が私達に襲いかかったのです!
屋根瓦が激しく音をたてて落ちてくるのがわかります。木造建築2階建ての家屋は家全体が今にも崩れんとばかりにとギシギシ悲鳴をあげ、今にも天井が落ちてきそうな雰囲気です。
この危険な状況を回避するには、この家の中にいるよりも屋外に出るのがベストだとスタッフ全員が思ったはずです。
しかし、人として、社会福祉の一端を担うプロとして、目の前にいる寝たきりの利用者を見捨てられるわけがありません。
でも、もしかしたら家屋に押し潰されてこのまま死んでしまうかもしれない…。
大切な家族の顔が脳裏を霞めました。
運命に身を委ねるしかない極限の状況のなか、家屋が倒壊しないことだけを祈り続けました。
家具などが、いとも簡単になぎ倒されていきます。利用者を落下物から体を張って守ります。とても長い時間に感じられました。
長い長い揺れがようやくおさまり、めちゃくちゃの室内から、倒れたテレビをつけると、
「大津波警報!あと10分で沿岸到着! 至急避難を!」
同時に、サイレンとともに町内の緊急放送が鳴り響きました。
ゾッとしました。
しかし過去に津波の経験がまったくない私たちは『津波がくる』ということに対し、知識などの備えがなく、実感がわかないとゆうかイメージがつきませんでした。
今、この状態で私たちはどうするべきかを考えました。必死でイメージしました。もし大きな波が押し寄せて来たとしたら海を目の前にしたこの家は、利用者は、ひとたまりもない!事態は一刻を争う!
とりあえず避難するべきだと思い、すぐに利用者を毛布で包み、抱きかかえて庭に連れ出しました。いまも強い余震が続いています。
主介護者である、ばぁちゃんは気が動転している様子です。 とにかく 早く逃げるようにと促し、私達3人は利用者を担架に乗せ、高台を目指し、がむしゃらに走り出しました。少しでも高い場所へ行きたいのですが、この街は海岸線に沿って平行に町並が区画されており1区画にズラリと何軒もの家が隙間なく建ち並んでいるため、進んでも進んでも高台へと繋がる道が見えてこず、ただ平行に移動しているだけの状況に、3人とも焦りを感じていました。
また、成人男性を運搬するのは想像以上に重く、私達の体中の筋肉が悲鳴をあげています。3人とも息があがっていました。
100メートルほど移動したところで高校生ぐらいの少年が、自宅から出てきました。
少年はこちらを見るとすぐに「手伝います!」と手を貸してくれました。
私たちは「助かるよ!ありがとう!」と、願ってもない助っ人の登場に感謝感激でした。

そして少年の案内でひとまず高台にある、観光ホテルを目指すことになりました。
4人で高台を目指し進んで行くと、さらに30代ぐらいの男性が力を貸してくれて、運ぶ手が5人になったところで 私は介護者のばぁちゃんを探しに引き返しました。
何年ぶりかの全力疾走は長いこともちません。地震から何分経過したんだろう…。
でも、津波がきたとしても防潮堤を越えて、ここまでくるのかなぁ?などと思いながらも
駆け足で戻っていくと、数人の住人達とすれ違いました。慌てる様子もなく立ち話をしていた様子が今でも思い出されます。

被災から10日ほど過ぎたいま、県警のホームページに『震災による死亡者名簿』が公表されており、この、いわき市豊間地区にもたくさんの犠牲者が出たことを知り、愕然としました。
あの時、すれ違う人々に、すぐに逃げるようにと声をかけていたとしたら、これほどの犠牲者は出なかったのではないかと思うと、後悔してもしきれません。
津波でたくさんの尊い命が奪われ、どんな思いで亡くなっていったのかと想像すると、頭がおかしくなってしまいそうです…。
私もそうでしたが、「津波が来る」ということにイメージが持てなかったんだと思います。経験がないだけに「騒ぎだけで結局は大したことないんじゃないか?何十年も暮らしてきたこの土地に、そんな大きい津波が来るなんて…」と、思っていた住人は少なくないと思います。

そして私は利用者宅の中に誰もいないことを確認した後、
車に乗り込み、みんながいる観光ホテルへと走りだしました。
その時ふと思い出したんです。
たしか、ばぁちゃんは集会場に避難すると言っていたが、さっきの少年の話では集会場がある場所は、さほど高い所ではないと!
集会場… どこにあるのかわかりません。でも 行くしかないと思い、つい先程昼食をとったセブンイレブンの前を通過した、その時でした。
「津波が来たぞーっ!!」怒声のような町内放送が鳴り響き、さっきまでの避難を促すためのそれとは明らかに違うものでした。
はじめて現実的に身の危険を感じたその瞬間!
目の前を走っていた黒の軽自動車が、真横から襲い掛かる真っ黒な津波に一瞬にして視界の外にまで吹き飛ばされました。
その時、私の車の横には2階建ての大きな家があり、津波の直撃をを回避できると思い、急ブレーキを踏んだ次の瞬間!
轟音とともに真っ黒な波しぶきが上がり、1階部分の柱が音をたてて折れ、家の敷地を囲む外壁をも一瞬で破壊。2階部分が傾いたかと思うと、私の車めがけて崩れかかってきました。車体左側、天井部、フロントガラスに直撃、著しく破損。
ここで死ぬかもしれない…。濁流の勢いは止まることなく、みるみるうちに水かさが増し、車が押し流されはじめました。浮かんだ状態の車体に、否応なしに倒壊、流出した家屋が次々と衝突してきます。ついに足下から海水が侵入し、車体はバランスを失い、転覆寸前です。もはやこれまでなのか…。
もし私がここで死んだら、心優しいスタッフの2人は悲しみ、自分達を責め、深い心の傷を背負ってしまうだろうな…
その姿を想像した時、あきらめちゃダメだと思うことができたんです。まだ死ぬわけにはいかないと気持ちを切り替えることができました。
助手席側に体重を移動しながら、バランスをとり、なんとか転覆を回避!
脱出方法はどうする?
この間にもジワジワと浸水してきます。

しかし、この時は、わりと冷静でいられたように思います。
きっと2人のおかげです。

このまま水没するようならギリギリで窓から脱出し、泳ぐ覚悟をきめました。
もし運良く水没前に流れが止まったとしたら、窓から脱出し、天井によじ登ろうとイメージしました。
じっと、その機会をうかがってると、車の周りをギッチリと隙間なく瓦礫が取り囲み、流れが一瞬、止まりました。いまだ!とばかりに、窓から脱出し天井によじ登りました。
そこから見た光景は

まるで空爆を受けた直後の街といったような壊滅的で絶望的なものでした。

まずはこの場を離れることが先決だと思い、まだ海水の上に浮かんでいるであろう瓦礫の上を瓦礫から瓦礫へと、鋭く飛び出した釘など、悪い足場に行く手を阻まれながらも、なんとか、ひとつ高い場所にたどり着くことができ、生還できたのです。

今、思うと生きて帰ってこれたことが、ほんとうに奇跡だったと思います。

途方に暮れる人、泣きくずれる人たちを横目にしながら、
なんとかホテル塩谷崎まで、たどり着くことができました。
一階部分まで津波が入った様子が伺え、 2人のスタッフと利用者を探そうとホテル内の捜索を試みようとしましたが、余震がひどく、付近の人達に立ち入りを止められます。被災し原形を留めない無数の車がクラクションを鳴らし続け、この非日常的な雰囲気を一層不気味なものにしていました。
なす術もなく呆然と立ち尽くしていると 向かい側の小高い場所に、避難したと思われる複数の人々の姿を見つけ 祈るような気持ちで向かいました。すると、スタッフの2人が泣きながら 私のほうに走ってくる姿が見え、やっと再会することができました。2人は、この場所から津波が襲ってくる様子を一部始終見ていたらしく、予想をはるかに超える激しい津波が町の南端から北側へと、どんどん飲み込まれていき、建物が破壊されていく音が何とも言えず不気味でなにか悲鳴のように聞こえ、とても恐ろしかったと話してくれました。
なかなか戻ってこない私のことは、津波に飲まこまれて流されてしまったのではないかと思い、ずっと心配していたと涙ながらに話をしてくれました。
こんな私を心配して 涙を流してくれた2人をなんとしてでも無事家族のもとに帰さなくてはと強く思いました。

そして利用者さんも無事に搬送でき、近くの旅館で奥さんが布団を用意してくれ、いまはバイタルも安定していると聞き、
すごいね!よくやったね!よくがんばったねと、健闘をたたえあいました。
しかし そこには
介護者の ばぁちゃんの姿はなく、利用者さんは、「うちの ばぁさん見なかったかい?」とひっきりなしに聞いてきます。
「いま探しているから大丈夫だよ、もう少し待っていてね」と答えるしかできませんでした…。
早く ばぁちゃんを見つけ出して安心させてあげたいと思い私は、ばぁちゃんを探しに、また歩き出しました。体がキツイです。ショックからか胃がキリキリと痛み、時々しゃがみ込んで痛みを和らげて、また歩き出します。喉がカラカラで飲料の自販機にお金を入れましたが停電していて買うことができませんでした。
余震が相変わらずひどく、その旅館も安全とは言えない状況です。水も食料もわずかしかありません。あてもなくふらふら歩いていると、いわきでは、めずらしく雪が降りはじめ、さらに厳しい状況になりました。
まずは、会う人会う人に聞いて回りますが ばぁちゃんの行方はわかりませんでした。
どこに行ったら良いかもわからず歩いていると老人保健施設の看板が目にとまり、仮の避難所になっているとの情報を聞きました。
どうかここにいてください!
ここにいなかったら…。
辺りはもう、まっ暗です。期待と不安が入り混じるなか、案内板とかすかな明かりを頼りに、地割れや陥没した坂道を力を振り絞って歩き続け、やっと施設までたどり着きました。
中は人で ごった返しています。
照明はロウソクのみの明かりです。
なかなか 見つけられませんでした。
とりあえず、旅館にいる利用者さんをここの施設に連れてきたほうが安全だし、ばぁちゃんも見つけやすいのではと思い、
職員に車を出してほしい旨、交渉をしましたが、目の前の状況に手がいっぱいで…時間帯的に職員も送迎に出てしまっていて…と良い返事をもらえないまま対応を待っていると、
突如、旅館にいた皆が現れたんです!
とても嬉しい誤算でした。
旅館の従業員さんの一人に、寒いからとスタッフに上着を用意してくれたりと大変お世話になった方がいて「このまま、この旅館に居ては暖房もなく食料もないし、もしも利用者さんが体調が悪くなった時に、どうする事もできないから、近くに介護施設があるから とりあえず行ってみましょう!」と、声をかけてくれたおかげで、
旅館の従業員の皆さん、そこにいた避難者の皆さんに力を借りて、利用者さんを抱え、
幹線道路まで移動。 たまたま通った トラックの荷台に乗せてもらい、皆で施設まで送り届けてもらったとのことでした。
旅館の従業員の皆さん、手助け頂いた避難者の皆さん、トラックの運転手さんには感謝してもしきれない思いでいっぱいです。
皆さん、いまどうしていますか?無事ですか?暮らしに困っていないですか?
とても心配です。

これで利用者さんの安全確保に関しては ひと安心です。
次は介護者の、ばぁちゃん探しです。
みんなで手分けをして避難者を一人一人確認していくも ばぁちゃんの姿はありません…
利用者さんに何と伝えたらいいのか…。
でも、あれほど ばぁちゃんを心配して気にかけていた利用者さんは、私たちを見て何かを察したのか、ばぁちゃんは…?とは一言も言わなくなっていたそうです。
3人で頭をかかえていると、
突如、利用者の息子さんだと名乗る方が現れました!
この施設に利用者さんを探しにきたとのことでした。ついに、ご家族に会うことができ、無事に引き渡すことができたのです。
しかし、利用者さんが見ている前で、ばぁちゃんの安否を聞くに聞けないでいると
息子さんから話をしてくれました。
息子さんは別居しているのですが地震の直後、偶然近くにいたらしく
私達と入れ替わりで 家に到着し、ばぁちゃんを保護し、今は別の場所で無事にしているとのことでした。
全員の無事が判明した瞬間でした。
それを聞いていた利用者さんも安心した様子で、スタッフの1人が「おばぁちゃん無事でよかったですね!今度は息子さんの家で入浴しましょう!また会いましょうね!」と言うと、
「ありがとう、ありがとう」と笑顔で応えてくれました。本当によかったと3人で涙を拭いながら、その施設をあとにしました。

地震から6時間が経過していました。

そして
震災の影響からか、なかなか電話が繋がらない状況の中、運よく私の婚約者と電話がつながり、無事を確認しあいました。もう一人の家族、うり坊は?!
地震当時、うり坊はいつものように一人で留守番をしていました。彼女が職場から駆け付け、玄関のドアを開けると、散乱した物で足の踏み場もない状態。なんとか室内へ入り、声をかけるも姿がありません…。鳴き声もしません…。
倒れた物の下敷きになってしまったのかと泣きながら物をどかしていきますが姿がなく、
ふとベランダに目を向けると我が家のゴミ置き場にゴミ袋とゴミ袋の間にうずくまっている、うり坊を発見!
一人ブルブル震えていたそうです。ケガをした様子もなく、無事だったと聞きました。
しかし…
ベランダの戸が閉まっていたのにどうやってベランダへ?
たまたま鍵をかけていなかったのが幸いしたようで、地震の揺れで戸が開き、その隙にベランダに逃げ出して、また揺れによって戸が閉まりベランダに取り残されたんだと考えられます。相当な恐怖だったことでしょう。
もし鍵が閉まってたら…ガラスが割れて飛び散っていたかもしれません。逃げ場もなかったことでしょう。

2人のスタッフもそれぞれの家族と連絡がとれ、関係者全員の無事が判明しました。
そして婚約者に近くまで車で迎えに来てもらい、会社までスタッフ2人を無事送迎し解散となり、それぞれの家族のもとへと無事帰ることができ、長い1日が終わりました。
身も心も疲れきっていました。
道路の陥没や地割れに驚きながら、自宅に戻りました。気が遠くなるほどち散らかった部屋に、ため息が出ました。横になるスペースだけを確保し、缶ビールを一気に飲み干し、眠りにつきました…。

そういえば…
あの時 手を貸してくれた少年は…?
スタッフに聞いてみると、利用者を高台まで運んだ後、ばぁちゃんが心配だからと言い残し、海岸方面へ向かっていったとのこと…
その直後、津波が…。その後の少年の行方は わからないとのことでした。
いま、この状況では調べる術もなく、ただ ただ無事を祈ることしかできませんでした…。
どうか無事で あっていてください!!

第1部
~完~
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by raifukuneko | 2011-04-08 16:49 | ひとりごと



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