一通のメール(東日本大震災) №01
皆様、ご無沙汰しております。
そして・・・・・ 震災に遭われた皆様、謹んでお見舞い申し上げます。 実は私も福島県いわき市に住んでおります。 私の事を心配して頂いた方々、ありがとうございます。 私も猫大将も元気で暮しております^^ 地震はまた昨日も・・・・・ これから復興という時期にまたもや大きな地震です そしてこの地域は原発からは40キロ、微妙な距離です^^; 今まで更新はもうしないと思っていたのですが知人から一通のメールが届き そのメールで震災の事が少しでも皆様に理解して頂ければと思い更新してみました。 以後、彼のメールです。 お時間がある方は読んでみて下さい。 東日本大震災の記録 ~はじめに~ 2011年3月11日(金)午後2時46分。 東日本大震災。 想像を超えた未曾有の大地震と言われ、地震、津波による、死亡者、行方不明者は2万人を超え、今だかつてない甚大な被害をもたらしたのです。 世界でも4番目にあたる、マグニチュード9,0を記録した大惨事となりました。 私が暮らす、福島県いわき市は原発の影響から 市の北側の一部地域が屋内待避エリアとなっています。 その報道がもとで風評被害がおこり、物資を運送するドライバーが市内への立ち入りを敬遠し、ガソリン、灯油をはじめ、薬剤、食料、日用品など全ての物流が完全に遮断してしまったのです。 スーパー、コンビニ、ガソリンスタンドなどは営業できず次々とシャッターを閉めることになりました。 いわき市民は、地震、津波による実質的な被害と風評被害、復旧の見通しがつかない水道、ガス等のライフラインといった状況から、 市民の多くは県外へと避難し、まるでゴーストタウンのような街になっていました。 私は、いわき市に住む37歳(♂)で訪問入浴の会社に勤務する介護福祉士です。 ひとつ歳下で居宅介護支援事業所に勤務するケアマネジャーの婚約者と、ミニチュアダックスフンドの、うり坊くん♂の3人で暮らしています。 その日は、 朝から2人とも仕事に出かけ、うり坊は留守番という、普段と変わりのないものでした。 第1部 ~被災~ 平成23年3月11日(金) 午後2時 私は、いわき市豊間という海岸沿いの小さな町で訪問入浴サービスを行っていました。 訪問入浴サービスとは、看護士1名と介護員2名の計3名で利用者宅に訪問し、在宅での入浴が困難な高齢者、障害のある方に行われる介護保険のサービスのひとつです。 この日は、とても信頼する大好きなスタッフとのチームで私は楽しく仕事をしていました。 その時、訪問していた利用者さんは、在宅酸素療法を用い、寝たきりの状態で暮らす介護度の高い男性でした。下半身に拘縮があり、座る姿勢をとることも難しく、移動をする場合はストレッチャー対応の車輌が必要でした。 いつものように若い頃の昔話などの会話を楽しみ、くだらない冗談に失笑を…といった、いつもと変わりのないサービスを終え、さて退出の挨拶をしようとした その時でした。 午後2時46分。 いままでに体験したことのない強い揺れが、あのマグニチュード9,0の大地震が私達に襲いかかったのです! 屋根瓦が激しく音をたてて落ちてくるのがわかります。木造建築2階建ての家屋は家全体が今にも崩れんとばかりにとギシギシ悲鳴をあげ、今にも天井が落ちてきそうな雰囲気です。 この危険な状況を回避するには、この家の中にいるよりも屋外に出るのがベストだとスタッフ全員が思ったはずです。 しかし、人として、社会福祉の一端を担うプロとして、目の前にいる寝たきりの利用者を見捨てられるわけがありません。 でも、もしかしたら家屋に押し潰されてこのまま死んでしまうかもしれない…。 大切な家族の顔が脳裏を霞めました。 運命に身を委ねるしかない極限の状況のなか、家屋が倒壊しないことだけを祈り続けました。 家具などが、いとも簡単になぎ倒されていきます。利用者を落下物から体を張って守ります。とても長い時間に感じられました。 長い長い揺れがようやくおさまり、めちゃくちゃの室内から、倒れたテレビをつけると、 「大津波警報!あと10分で沿岸到着! 至急避難を!」 同時に、サイレンとともに町内の緊急放送が鳴り響きました。 ゾッとしました。 しかし過去に津波の経験がまったくない私たちは『津波がくる』ということに対し、知識などの備えがなく、実感がわかないとゆうかイメージがつきませんでした。 今、この状態で私たちはどうするべきかを考えました。必死でイメージしました。もし大きな波が押し寄せて来たとしたら海を目の前にしたこの家は、利用者は、ひとたまりもない!事態は一刻を争う! とりあえず避難するべきだと思い、すぐに利用者を毛布で包み、抱きかかえて庭に連れ出しました。いまも強い余震が続いています。 主介護者である、ばぁちゃんは気が動転している様子です。 とにかく 早く逃げるようにと促し、私達3人は利用者を担架に乗せ、高台を目指し、がむしゃらに走り出しました。少しでも高い場所へ行きたいのですが、この街は海岸線に沿って平行に町並が区画されており1区画にズラリと何軒もの家が隙間なく建ち並んでいるため、進んでも進んでも高台へと繋がる道が見えてこず、ただ平行に移動しているだけの状況に、3人とも焦りを感じていました。 また、成人男性を運搬するのは想像以上に重く、私達の体中の筋肉が悲鳴をあげています。3人とも息があがっていました。 100メートルほど移動したところで高校生ぐらいの少年が、自宅から出てきました。 少年はこちらを見るとすぐに「手伝います!」と手を貸してくれました。 私たちは「助かるよ!ありがとう!」と、願ってもない助っ人の登場に感謝感激でした。 そして少年の案内でひとまず高台にある、観光ホテルを目指すことになりました。 4人で高台を目指し進んで行くと、さらに30代ぐらいの男性が力を貸してくれて、運ぶ手が5人になったところで 私は介護者のばぁちゃんを探しに引き返しました。 何年ぶりかの全力疾走は長いこともちません。地震から何分経過したんだろう…。 でも、津波がきたとしても防潮堤を越えて、ここまでくるのかなぁ?などと思いながらも 駆け足で戻っていくと、数人の住人達とすれ違いました。慌てる様子もなく立ち話をしていた様子が今でも思い出されます。 被災から10日ほど過ぎたいま、県警のホームページに『震災による死亡者名簿』が公表されており、この、いわき市豊間地区にもたくさんの犠牲者が出たことを知り、愕然としました。 あの時、すれ違う人々に、すぐに逃げるようにと声をかけていたとしたら、これほどの犠牲者は出なかったのではないかと思うと、後悔してもしきれません。 津波でたくさんの尊い命が奪われ、どんな思いで亡くなっていったのかと想像すると、頭がおかしくなってしまいそうです…。 私もそうでしたが、「津波が来る」ということにイメージが持てなかったんだと思います。経験がないだけに「騒ぎだけで結局は大したことないんじゃないか?何十年も暮らしてきたこの土地に、そんな大きい津波が来るなんて…」と、思っていた住人は少なくないと思います。 そして私は利用者宅の中に誰もいないことを確認した後、 車に乗り込み、みんながいる観光ホテルへと走りだしました。 その時ふと思い出したんです。 たしか、ばぁちゃんは集会場に避難すると言っていたが、さっきの少年の話では集会場がある場所は、さほど高い所ではないと! 集会場… どこにあるのかわかりません。でも 行くしかないと思い、つい先程昼食をとったセブンイレブンの前を通過した、その時でした。 「津波が来たぞーっ!!」怒声のような町内放送が鳴り響き、さっきまでの避難を促すためのそれとは明らかに違うものでした。 はじめて現実的に身の危険を感じたその瞬間! 目の前を走っていた黒の軽自動車が、真横から襲い掛かる真っ黒な津波に一瞬にして視界の外にまで吹き飛ばされました。 その時、私の車の横には2階建ての大きな家があり、津波の直撃をを回避できると思い、急ブレーキを踏んだ次の瞬間! 轟音とともに真っ黒な波しぶきが上がり、1階部分の柱が音をたてて折れ、家の敷地を囲む外壁をも一瞬で破壊。2階部分が傾いたかと思うと、私の車めがけて崩れかかってきました。車体左側、天井部、フロントガラスに直撃、著しく破損。 ここで死ぬかもしれない…。濁流の勢いは止まることなく、みるみるうちに水かさが増し、車が押し流されはじめました。浮かんだ状態の車体に、否応なしに倒壊、流出した家屋が次々と衝突してきます。ついに足下から海水が侵入し、車体はバランスを失い、転覆寸前です。もはやこれまでなのか…。 もし私がここで死んだら、心優しいスタッフの2人は悲しみ、自分達を責め、深い心の傷を背負ってしまうだろうな… その姿を想像した時、あきらめちゃダメだと思うことができたんです。まだ死ぬわけにはいかないと気持ちを切り替えることができました。 助手席側に体重を移動しながら、バランスをとり、なんとか転覆を回避! 脱出方法はどうする? この間にもジワジワと浸水してきます。 しかし、この時は、わりと冷静でいられたように思います。 きっと2人のおかげです。 このまま水没するようならギリギリで窓から脱出し、泳ぐ覚悟をきめました。 もし運良く水没前に流れが止まったとしたら、窓から脱出し、天井によじ登ろうとイメージしました。 じっと、その機会をうかがってると、車の周りをギッチリと隙間なく瓦礫が取り囲み、流れが一瞬、止まりました。いまだ!とばかりに、窓から脱出し天井によじ登りました。 そこから見た光景は … まるで空爆を受けた直後の街といったような壊滅的で絶望的なものでした。 まずはこの場を離れることが先決だと思い、まだ海水の上に浮かんでいるであろう瓦礫の上を瓦礫から瓦礫へと、鋭く飛び出した釘など、悪い足場に行く手を阻まれながらも、なんとか、ひとつ高い場所にたどり着くことができ、生還できたのです。 今、思うと生きて帰ってこれたことが、ほんとうに奇跡だったと思います。 途方に暮れる人、泣きくずれる人たちを横目にしながら、 なんとかホテル塩谷崎まで、たどり着くことができました。 一階部分まで津波が入った様子が伺え、 2人のスタッフと利用者を探そうとホテル内の捜索を試みようとしましたが、余震がひどく、付近の人達に立ち入りを止められます。被災し原形を留めない無数の車がクラクションを鳴らし続け、この非日常的な雰囲気を一層不気味なものにしていました。 なす術もなく呆然と立ち尽くしていると 向かい側の小高い場所に、避難したと思われる複数の人々の姿を見つけ 祈るような気持ちで向かいました。すると、スタッフの2人が泣きながら 私のほうに走ってくる姿が見え、やっと再会することができました。2人は、この場所から津波が襲ってくる様子を一部始終見ていたらしく、予想をはるかに超える激しい津波が町の南端から北側へと、どんどん飲み込まれていき、建物が破壊されていく音が何とも言えず不気味でなにか悲鳴のように聞こえ、とても恐ろしかったと話してくれました。 なかなか戻ってこない私のことは、津波に飲まこまれて流されてしまったのではないかと思い、ずっと心配していたと涙ながらに話をしてくれました。 こんな私を心配して 涙を流してくれた2人をなんとしてでも無事家族のもとに帰さなくてはと強く思いました。 そして利用者さんも無事に搬送でき、近くの旅館で奥さんが布団を用意してくれ、いまはバイタルも安定していると聞き、 すごいね!よくやったね!よくがんばったねと、健闘をたたえあいました。 しかし そこには 介護者の ばぁちゃんの姿はなく、利用者さんは、「うちの ばぁさん見なかったかい?」とひっきりなしに聞いてきます。 「いま探しているから大丈夫だよ、もう少し待っていてね」と答えるしかできませんでした…。 早く ばぁちゃんを見つけ出して安心させてあげたいと思い私は、ばぁちゃんを探しに、また歩き出しました。体がキツイです。ショックからか胃がキリキリと痛み、時々しゃがみ込んで痛みを和らげて、また歩き出します。喉がカラカラで飲料の自販機にお金を入れましたが停電していて買うことができませんでした。 余震が相変わらずひどく、その旅館も安全とは言えない状況です。水も食料もわずかしかありません。あてもなくふらふら歩いていると、いわきでは、めずらしく雪が降りはじめ、さらに厳しい状況になりました。 まずは、会う人会う人に聞いて回りますが ばぁちゃんの行方はわかりませんでした。 どこに行ったら良いかもわからず歩いていると老人保健施設の看板が目にとまり、仮の避難所になっているとの情報を聞きました。 どうかここにいてください! ここにいなかったら…。 辺りはもう、まっ暗です。期待と不安が入り混じるなか、案内板とかすかな明かりを頼りに、地割れや陥没した坂道を力を振り絞って歩き続け、やっと施設までたどり着きました。 中は人で ごった返しています。 照明はロウソクのみの明かりです。 なかなか 見つけられませんでした。 とりあえず、旅館にいる利用者さんをここの施設に連れてきたほうが安全だし、ばぁちゃんも見つけやすいのではと思い、 職員に車を出してほしい旨、交渉をしましたが、目の前の状況に手がいっぱいで…時間帯的に職員も送迎に出てしまっていて…と良い返事をもらえないまま対応を待っていると、 突如、旅館にいた皆が現れたんです! とても嬉しい誤算でした。 旅館の従業員さんの一人に、寒いからとスタッフに上着を用意してくれたりと大変お世話になった方がいて「このまま、この旅館に居ては暖房もなく食料もないし、もしも利用者さんが体調が悪くなった時に、どうする事もできないから、近くに介護施設があるから とりあえず行ってみましょう!」と、声をかけてくれたおかげで、 旅館の従業員の皆さん、そこにいた避難者の皆さんに力を借りて、利用者さんを抱え、 幹線道路まで移動。 たまたま通った トラックの荷台に乗せてもらい、皆で施設まで送り届けてもらったとのことでした。 旅館の従業員の皆さん、手助け頂いた避難者の皆さん、トラックの運転手さんには感謝してもしきれない思いでいっぱいです。 皆さん、いまどうしていますか?無事ですか?暮らしに困っていないですか? とても心配です。 これで利用者さんの安全確保に関しては ひと安心です。 次は介護者の、ばぁちゃん探しです。 みんなで手分けをして避難者を一人一人確認していくも ばぁちゃんの姿はありません… 利用者さんに何と伝えたらいいのか…。 でも、あれほど ばぁちゃんを心配して気にかけていた利用者さんは、私たちを見て何かを察したのか、ばぁちゃんは…?とは一言も言わなくなっていたそうです。 3人で頭をかかえていると、 突如、利用者の息子さんだと名乗る方が現れました! この施設に利用者さんを探しにきたとのことでした。ついに、ご家族に会うことができ、無事に引き渡すことができたのです。 しかし、利用者さんが見ている前で、ばぁちゃんの安否を聞くに聞けないでいると 息子さんから話をしてくれました。 息子さんは別居しているのですが地震の直後、偶然近くにいたらしく 私達と入れ替わりで 家に到着し、ばぁちゃんを保護し、今は別の場所で無事にしているとのことでした。 全員の無事が判明した瞬間でした。 それを聞いていた利用者さんも安心した様子で、スタッフの1人が「おばぁちゃん無事でよかったですね!今度は息子さんの家で入浴しましょう!また会いましょうね!」と言うと、 「ありがとう、ありがとう」と笑顔で応えてくれました。本当によかったと3人で涙を拭いながら、その施設をあとにしました。 地震から6時間が経過していました。 そして 震災の影響からか、なかなか電話が繋がらない状況の中、運よく私の婚約者と電話がつながり、無事を確認しあいました。もう一人の家族、うり坊は?! 地震当時、うり坊はいつものように一人で留守番をしていました。彼女が職場から駆け付け、玄関のドアを開けると、散乱した物で足の踏み場もない状態。なんとか室内へ入り、声をかけるも姿がありません…。鳴き声もしません…。 倒れた物の下敷きになってしまったのかと泣きながら物をどかしていきますが姿がなく、 ふとベランダに目を向けると我が家のゴミ置き場にゴミ袋とゴミ袋の間にうずくまっている、うり坊を発見! 一人ブルブル震えていたそうです。ケガをした様子もなく、無事だったと聞きました。 しかし… ベランダの戸が閉まっていたのにどうやってベランダへ? たまたま鍵をかけていなかったのが幸いしたようで、地震の揺れで戸が開き、その隙にベランダに逃げ出して、また揺れによって戸が閉まりベランダに取り残されたんだと考えられます。相当な恐怖だったことでしょう。 もし鍵が閉まってたら…ガラスが割れて飛び散っていたかもしれません。逃げ場もなかったことでしょう。 2人のスタッフもそれぞれの家族と連絡がとれ、関係者全員の無事が判明しました。 そして婚約者に近くまで車で迎えに来てもらい、会社までスタッフ2人を無事送迎し解散となり、それぞれの家族のもとへと無事帰ることができ、長い1日が終わりました。 身も心も疲れきっていました。 道路の陥没や地割れに驚きながら、自宅に戻りました。気が遠くなるほどち散らかった部屋に、ため息が出ました。横になるスペースだけを確保し、缶ビールを一気に飲み干し、眠りにつきました…。 そういえば… あの時 手を貸してくれた少年は…? スタッフに聞いてみると、利用者を高台まで運んだ後、ばぁちゃんが心配だからと言い残し、海岸方面へ向かっていったとのこと… その直後、津波が…。その後の少年の行方は わからないとのことでした。 いま、この状況では調べる術もなく、ただ ただ無事を祈ることしかできませんでした…。 どうか無事で あっていてください!! 第1部 ~完~
by raifukuneko
| 2011-04-08 16:49
| ひとりごと
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