こんにちは!
皆さんお元気でいらっしゃいますか?? 先日、ブログに記載した"一通のメール"に対して様々なメールを頂きました。 ありがとうございますm( )m 私はこの事実を押し付けではなく読んで下さった方がその方なりに理解して頂ければと考えます。 考え方は本人次第ですね^^ 東日本大震災は次のステップに移っているようです 復興に向け前を向いて進んでおります。 いや・・・・ 進むしかないようです。 ただ・・・・ 福島に関しては残念ながら終わっていないようで"原発"の問題が現在進行形で進んでおります。 そんな中、酷い風評被害を聞きました。 福島から転校した児童が差別を受けているようです それは児童からだけではなく先生からも・・・・・・・ 嘘のような現実です。 それ以外でも"魚介類""野菜"等はもちろん東京でガソリンの給油を拒否されたり東京へ運送する トラックは福島ナンバーでは運べない現実があるようです。 残念ながら悲しい現実のようです。 話は変わりますが"一通のメール"の知人から「あとがき」が届きました! また知人も今回の出来事で考える事があったようです。 もし興味をお持ちの方はご覧下さい。 もし以前のブログを見ていない方は先に下記を見た方が理解出来ると思います。 一通のメール(東日本大震災) №01 一通のメール(東日本大震災) №02 ~あとがき~ この記録は、生まれて初めての経験で私が間近に遭遇した東日本大震災の惨状を通して、 地震、津波の恐ろしさ、被災した人々の深い悲しみ、 また、震災直後、自分の身もどうなるかわからないような恐怖や不安、悲しみでいっぱいなはずの人達が、他人を気遣って手を差し延べるという強く、優しい姿を忘れてはならないと思い、書き記したものです。 この記録を書き終えた私は、まず少年のご両親のもとに記録を届けました。 後日、みんなで読みました、ありがとうございましたと連絡がありました。 そして、彼が通っている高校にも届けました。 震災翌日に彼は火葬されたとのことでしたが、それぞれに厳しい状況の中でも、たくさんのお友達が参列し、手を合わせられたと聞きます。 優しくて人気者だったと聞きます。 私は、お友達のみなさんにも彼の勇敢な最期を知ってほしいと思い、高校に足を運んだのです。 しかし、記録を作成していく間も、震災があった直後からの出来事をできるだけ正確なものにしようと、記憶を呼び覚ましていく中で、 深く考えさせられたことがありました。 もし、私たちが 彼に会っていなかったとしたら… きっと彼は、まっすぐ、おばあさんの家に行き、彼も、おばあさんも助かっていたのかも知れない…。 私たちのせいで彼は…。 振り返ると、私の最初の判断に失敗があったのです。 利用者さんを避難させる際、その時乗ってきていた車に乗せて逃げていれば、彼には会わずに済んだのではないかと。 利用者さんが、座る姿勢がとれないイコール、車に乗ることができないと思いこんでしまったのです。入浴車という特殊な構造のワンボックスタイプの車でしたが、積んである浴槽などの荷物をその場に下ろせば、 寝たままの利用者さんをなんとか入れることができたと思われます。 そして介護者のばぁちゃんも車に乗せて、すぐ高台に逃げていれば人も車も無事だったなと…。 その時、冷静な対応ができなかったことが悔やまれます。 ちなみに第1波到着時刻は 3時26分頃でした…。 また、彼に、おばあさんがいることを知った時点で無理矢理にでも、おばあさんのもとに向かわせていたとしたら…? 思い出せば、思い出すほど、あの時こうしていれば… もし、こうしていれば…と思い悩みました。 毎晩、眠れない日々を過ごしました。 いまも、2人のスタッフは、とても強い罪悪感を感じて暮らしています…。 そんな2人は、このように、たくさんの人達に、記録を公表することにも意欲的ではありませんでした。 私は、それでも 公表しようと思いたったのです。 私たちが、あの大災害から生きて帰ってこれた裏側には、こんなことがあったんだと。 一人の優しく、勇敢な少年に助けられて、私たちは生きていると。 いつまでも泣いてばかりの私たちを見たら、彼はどう思うのでしょうか? 彼の身と引きかえに救われた命なのです。生きていかなければならないのです。 私たちができることは、もう戻ることはできない彼のために、彼の死を無駄にしないことだと思ったのです。 この記録を伏せているほうが残された家族にとっては良いのではないかという意見もありました。私が、もし彼の立場だったら、ということを考えてみました。あの時、きっと同じように手を差し延べて、同じ結末を迎えたと思います。一人の男として、彼の気持ちがわかるような気がします。 そうせざるを得ない状況だったというか、その瞬間、瞬間で決断を迫られたはずで、もし逆の行動をとっていたとしら、 例えば、あの時、彼がわたし達に手を貸さない判断をしたとして、彼は助かって、もし私たち3人と利用者さんが津波に飲まれて亡くなっていたとしたら…。 正義感が強く、心優しい彼は、なんで自分はあの時…と激しく自分を責めたて、 一生後悔し続けることになったと思います。 優しさによって救われた命と 優しさによって失われた命が ここにあると思います。 そんな彼は、「せっかく助けてあげたのに、何をクヨクヨしてるんだ!」って怒っていると思うのです。 まず、私たちが元気に暮らして、活躍していく姿を見せること。 そして、 記録を広く公表することで、またいつか起こるかもしれない大震災への備えになればよいと思うし、 震災直後、異常事態の中で見た、人々の強い倫理感、団結力、思いやり、優しさの大切さを後世に伝えられればいいなと思うのです。 彼が命と引き替えに残してくれたものを決して無駄にしないように。 理解してもらえる人もいれば理解できない人もいると思います。私個人の見解なので…。 今日でも被災地では、新たに発見されたご遺体が日を追うごとに増えています。 2万人をはるかに超える人々が亡くなり、その数だけ最期の日、命を落とす瞬間があり、そこには想像を絶する光景がいくつもあったと思います。 家族を目の前で流され、一人ぼっちになってしまった人、 今も遺体を探し続けている人々がたくさんいます。 計りしれない悲しみがそこにはあると思います。 わたし達には想像できないほど辛い現実と戦っていることでしょう。 わたしにできることは… 生き残った人達を微力ながらも支えたい、力になりたいとの思いで、この記録を世に出しました。 福島県いわき市豊間の一人の少年の生き様、男らしさに、私は男として尊敬します。 ありがとう! ~完~ #
by raifukuneko
| 2011-04-22 06:52
| ひとりごと
内容は多すぎて入りきりませんでした^^;
続きです! お時間がある方はどうぞ^^ ~少年の行方を求めて~ 3月12日(土) 朝、目を覚ますと、 散らかった室内を見て夢ではなかったと実感させられました。体中が筋肉痛です。婚約者は朝早くから、担当利用者の安否確認に出かけていました。 そう、あの少年は… ばぁちゃんが心配だと言い残し 姿を消したあの少年は… 私は、もう一度会って、お礼を言いたいと思い、少年の行方をさがすことにしたのです。 わかっている情報を整理すると… その少年の家は、 豊間セブンイレブンの裏の道から、海に向かって突き当たりの海岸沿いにある。 年齢は10代後半?身長165~170㎝位。 この時点では、これだけでした。 2人のスタッフから話を聞くと、 帽子をかぶっていたこと、リュックのようなバックを背負っていたことの2つ、情報が増えました。 名前はわからないとのことでした。 3月13日(日) 何か手がかりをと思い豊間を訪れました。 自衛隊による捜索活動のため道路が封鎖されていました。 徒歩で旅館まで行こうとしましたが、瓦礫などが散乱しており通行できず、途中で引き返すことになり、 この日は情報を得ることができませんでした。 3月18日(金) 福島県警ホームページ上にて「震災による死亡者名簿」が公表されました。 豊間地区でも、多数の犠牲者が出たことを知り、胸が痛みました。 高齢者が多く見受けられるなか、たった一人、10代の若者がいました。年齢は17才。この若さで逃げ遅れるなんて… この時私は漠然とした何か、胸騒ぎのようなもの感じていました。 3月21日(月) 昨夜から夜を徹してガソリンスタンドに列び、ようやくガソリンが手に入り、再び 豊間を訪れました。 封鎖されていた道路は開通しており、手がかりを求め、旅館へと向かいました。 しかし 人影はなく、連絡が欲しいとの手紙を玄関先に置き、立ち去ることにしました。 海岸沿いの道もなんとか通行が可能となっていました。 防潮堤が破壊されていて、分厚いコンクリートの塊が数十メートルも先に、流されていました。 こんな大きなコンクリートの塊が…? 今回の津波の破壊力に、あらためて恐怖を感じました。 利用者さん宅は、跡形もなく流され、基礎だけが残っていました。 あの時、あと少し判断が遅かったら…と思うとゾッとしました。 同じ並びの家も同じように変わり果てた姿になっていました。 この日も有力な情報を得ることはできませんでした。 3月23日(水) 私が勤める会社が、震災後、はじめての営業再開となり、慌ただしく過ごしていました。 ヒマさえあれば携帯をチェックし、情報を待ち続けました。 夜は、ある人を探してるいるとの記事を FMいわきに投稿をしました。 また、豊間出身の知人に情報提供を呼びかけました。 インターネットの掲示板などで呼びかける方法を検討しました。 3月24日(木) スタッフの1人からメールがきました。県警ホームページ上の「震災による死亡者名簿」にある、17才の少年… 私たちが探しているあの少年に、ほぼまちがいないと言うのです! 県警のものより、細かい住所が載っているサイトを見つけ、地図で検索をしたところ、家の場所がほぼ一致し、間違いないと思うとのことでした…。 とても信じがたく、信じられない思いでいっぱいでした。あの少年が死んでしまっていたなんて…。 でも、この情報だけでは断定することはできません。まだ、人違いの可能性も! 私たちは、少年の遺族を探すことにしました。 事情を話し、写真を見せてもらおうと。 答えは2つに1つです。 もし人違いであれば、あの少年は生存している可能性が残ることになります。 もし私たちが探している少年と写真の少年とが同一人物だったとしたら… 私は思いました。 この17才の少年のご両親は、 息子はどうして、逃げ遅れることになったのか、あの時どこで何をしていたのかを知りたいはずだと…。 そのことを知っているのは私たちだけということになります。 志し半ばで死んでいった、少年のためにも、ご家族のためにも、なんとしてでも伝えなければと! やはり、それでも人違いであってほしいのですが…。 早速、そのスタッフが福島県警に電話をしました。 事情を話しましたが、最終的には、個人情報なので教えることはできないとのことでした。 3月25日(金) この日、事態は急展開を迎えることになるのです! 私は、いつもどうり仕事をしていると、昨日、話をしたスタッフからメールがきました。 とある特殊な職業の友人がいて、連絡をしてみたところ、 その17才の少年のご遺体は、11日の日に父親が引き取りに来たと。 父親の連絡先は…? それは個人情報なので、教えられないと言われたとのことでした。 どうすれば…どうすれば辿り着けるのかと頭を悩ませていたところ、電話がきて、 なんと!その友人が、事情が事情だからと特別に配慮をしてくれ、その父親に電話をしてくれたそうです! 私たちの話を、ぜひ聞きたいとのことになり、ついに、遺族と連絡がとれることになりました! 早速、電話を入れ、震災があった日から、ある少年を探しているのですが、もしかしたらそれが息子さんなのかもしれないのですと伝え、話をしていくと、住んでいた場所、 その時の服装、 近所に祖母が住んでいること、全てが当てはまりました。 写真があるので、ぜひ見に来てくださいとのことで、明日、私たち3人でご両親が避難しているという場所に行くことになりました。 3月26日(土) 私たちは、近くのコンビニに集合しました。私たち3人、あの大震災から二週間ぶりの再会でした。 2人の顔を見ると、あの日、無事に帰ることができて本当に良かったなと、しみじみ思いました。 2人とも昨夜は、よく眠れなかったそうです。 どうか 人違いであってほしい…。祈る思いで車を走らせました。 待ち合わせの場所で、待つこと数分、 近くの家に案内されました。 壁には、息子さんの遺影が立てかけてありました。満面の笑みを浮かべ、ブイサインをした、少年が…。 この写真だけではと、数枚のスナップ写真や携帯電話の画像を見せてもらい、私たちは確信をしました。 私たちが探し続けていた少年は、この人だと…。 あの日、私たちが出会った少年は、間違いなく息子さんだと思います…。 あの地震の直後、私たちは彼に命を助けられたんです。お礼を言いたくて、ずっと探していたのですが…。 言葉がつまります。 そうだったんですか…。息子は何をしていたんでしょうか? あの日、私たち3人は近くの家で訪問入浴サービスをしていたんです。 その時に地震がきて私たちは利用者さんを抱えて大急ぎで避難していたんです。右も左もわからずにいたところに、ちょうど彼が家から出てきて、手を貸してくれたんです。 私たちを傍観しているだけの大人たちをよそに、彼は真っ先に「手伝います!」と言ってくれました。とてもありがたかったです。 そして地理がよくわからない私たちを高台へと先導してくれたのも彼でした。 もし彼がいなかったら、私たちは、やみくもに走り、体力を消耗し、動けなくなってしまい、利用者さん共々津波に飲み込まれていたかもしれないのです。 また彼は、ケガはないか、大丈夫かと利用者さんの体を気づかってくれました。 高台にあるホテル塩屋崎なら、ベットもあるし暖房もあるかからと案内してくれたんです。 その途中で、彼には 足の不自由な、おばぁちゃんがいることを知りました。 おばぁちゃんのところに行かなくていいのか?こっちは大丈夫だから行ったほうがいい!と何度言っても、彼は「ばぁちゃんは大丈夫です。足が悪いけど、一人で歩けるから、いまはこっちのほうが優先なんです!」と、行こうとしなかったんです。疲労困憊の私たちを見捨てられなかったのでしょう… そして、ホテルに辿り着くと、 このホテルも安全ではないと言われ、彼はホテルの従業員さんに、一緒に運んでください!と声をかけてくれたのです。これも、2人の女性スタッフが疲れきっていることに気を使ってくれたんだろうなと思うと、なんて心優しい少年なんだと… そして向かい側に小高い場所があるからと先頭を切って運んでくれたおかげで、私たちスタッフと利用者さんは津波から逃れることができたのです。 彼の勇気ある行動と優しさのおかげで…。 そして彼は、 ばぁちゃんが心配だからと言い残して、 私たちの前から立ち去ったのです…。 これが私たちの知る、息子さんの最後です。 もう、彼に会えないのが残念でなりません…。 するとお父さんが言いました。 息子は地震がきて一人、オロオロしていて津波に流されたと思っていたと。 そしてお母さんが、 息子は、立派に人助けをしていたんだね…。 大好きだった、ばぁちゃんが心配で戻っていったんだね…。 それで津波に… がんばったね… 褒めてあげたい…と。 息子さんは地震の翌日に見つかったそうです。顔と後頭部に深い傷を負って…。 息子さんらしき少年が遺体で見つかったと連絡を受けたお父さんは、その目で確かめるまで、息子のはずがない、人違いだと信じて疑わなかったそうです…。 彼が気にかけていた、おばぁちゃんは… いまだ行方不明とのことでした…。おじいちゃんは遺体で見つかったと…。 彼の携帯電話には、午後3時20分に、おばぁちゃんの家に電話をしていた履歴が残っていたそうです…。 お父さんが言いました。息子は地震がきた時、一人で心細かっただろう。恐かっただろうなぁ。甘ったれの息子だったから…。 あいつなりに精一杯、頑張ったんだろうな…。 息子が最後に、こんなにも男らしく、立派な行動をしていたことは親としてとても嬉しく思います。話をしてくれてありがとうございました。どうか盛人のこと、忘れないでください。 私たち家族も、これでやっと再スタートを切ることができます。ありがとうございました。と涙をこらえながら、話されました。 そして、その場を後にした私たちは、花束を買って、彼の家があった場所を訪れました。 花を供え、手を合わせて、私は彼に語りかけました。 今日、私たちは、お父さん、お母さんを少しでも悲しみから救うことができたのかな… ありがとね、私たちをまもってくれて。疲れたでしょ?ゆっくり休んでね。 でもさ、あの時の登場シーン! かっこ良かったなぁ…。手を貸すと言ってくれた時!皆を引っ張って歩いていく姿!超カッコ良かったよ! お父さんに見せてあげたかったなぁ… もう会えないなんて… 生きていてほしかった…。 何百年に1度とも言われた、歴史に残る大震災…。 あの日、あの瞬間にあなたに出会えた奇跡を、 キラキラと輝いていたあなたを、あなたの勇姿を、決して忘れることなく、私たち3人は生きていきます。 どうか、安らかに眠れますように…。 第2部 ~完~ KS #
by raifukuneko
| 2011-04-08 16:52
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